まいねる見聞録

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レンナート・スコグルンド スウェーデン黄金期の隠れた名手

 

レンナート・スコグルンド 

 

1929年12月24日生、1975年7月8日没

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1940年代から50年代にかけてのスウェーデンサッカーの躍進は素晴らしいもので、48年五輪、50年と58年のワールドカップ(54年は予選敗退)で好成績を残していた。これらの活躍を受け当時アマチュアリーグしかなかったスウェーデンにおいて多くの選手が海外(主にイタリア)でプロ選手の道を歩んで行くこととなった。

 

ナッカのあだ名で知られる170センチと小柄な左利きのドリブルの名手であるスコグルンドもその1人。彼の役目は左サイドからボールを持って相手ディフェンダーを縦に交わして前線にクロスを送り込むこと。70年代頃までは主流だった縦に突破してクロスを上げるいわゆる今となっては古典的と言えるウインガーの1人である。この手のウインガーの中で最も有名なのはイングランドのマシューズやブラジルのガリンシャだが、スコグルンドもまた彼らが多用した中に切れ込むフリをして縦に突破して相手ディフェンダーを置き去りにするシンプルなフェイントの名手で、度々この縦突破でチャンスを演出していた。

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スウェーデン代表として

 

評価
左足の優れたボールテクニックに定評があり、左サイドから繰り出すドリブル突破が最大の武器であった。また、コーナーキックの名手としても知られ、ストックホルムには彼の功績を称えてナッカのコーナーと呼ばれる像があるほど。強力なショットも装備しており、クロスだけでなく自ら得点を奪いにいける得点力もあった。一方でフィジカル面の弱さやスタミナがない点が欠点として評されることもあった。

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↑彼の代名詞の一つであるコーナーキック


経歴
16歳の若さでハマービーでデビューすると、すぐに頭角を現しレギュラーに定着する。しかしハマービーは資金難ゆえにこの若き才能を手放さざるを得なかった。19歳のときにスコグルンドはAIKソルナに移籍した。加入後まもなくイングランドへの親善試合ツアーに帯同し、リヴァプールとの試合に出場した。当時のリヴァプール監督ジョージ ケイはスコグルンドのプレーに感銘を受け、あの少年はものすごい奴になるぞと記者に語っている。華々しい戦果が期待されたスコグルンドだったが強制兵役のために公式戦デビューは遅れてしまう。兵役を終えた夏、マルメとの試合でようやく公式戦初出場、その後も良好なパフォーマンスを披露し続け、ついにはブラジルで行われる1950年のワールドカップの出場メンバーに選出された。この大会でスウェーデンは3位の好成績を残し、それに貢献したスコグルンドに興味を示すクラブが出現しだした。当時プロリーグが存在しなかったスウェーデン国内に留まるよりも高額な報酬が約束されるプロへ転向するという魅力的な選択肢がスコグルンドの前に提示されたが、これには1つ障害があった。海外でプロ入りした選手は自国代表選手には選出しないという方針をスウェーデンサッカー協会が示していたため、プロ入りすると代表チームから除外されてしまうのだ。実際1950年のワールドカップでは、1948年のロンドン五輪スウェーデンの金メダルに貢献したグレン、リードホルム、ノルダールが五輪後にいずれもイタリアでプロ入りしたが、彼らはこの大会のメンバーには入れなかった。しかしスコグルンドは迷うことなく先達の後を追う道を選び、ブラジルのサンパウロFCのオファーを断りイタリアのインテルに移籍しプロ転向することにした。プロでもスコグルンドの左足は冴え渡り、ロレンツィやヴィルケスなどの有力なストライカーにも恵まれ、彼の突破とクロスはインテル最大の武器の1つとなっていった。

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↑中に切れ込むそぶりを見せて一気にアウトに抜け出すドリブルと抜け出してからのクロスは一級品

 

しかし55年以降次第にクラブの成績は低迷、スコグルンドにとっても厳しいシーズンが続くようになる。一方で1958年、自国開催のワールドカップを迎えたスウェーデンは、自国開催で無様な結果は出せないと腹をくくり今までのアマチュア主義を放棄し、プロ選手の招集を解禁する。これに伴いスコグルンドはグレン、リードホルムらのプロ転向選手とともにメンバー入りを果たした。プロ選手を揃えたスウェーデンは自国開催の恩恵も受け決勝まで勝ち上がった。決勝では残念ながら17歳の神童ペレや世界最高ウインガーガリンシャ、司令塔ジジらを揃えたブラジルに敗れて準優勝となってしまったが、スコグルンドはこの大会で代表キャリア唯一となる得点を挙げたほか、アシストも記録し代表チームの準優勝に大いに貢献している。しかしこれ以降スコグルンドのキャリアは次第に下降線の一途を辿っていくのだが、その間にインテルを離れサンプドリアパレルモでプレー、35歳を迎える1963年にスウェーデンに戻り、1967年に引退した。現役時代から酒好きで知られ、夜の街で遊ぶことを好んだスコグルンドは引退後からアルコール中毒などの健康問題を抱え、引退からわずか8年後の45歳のときに死亡してしまった。

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スコグルンド現役時代の映像
https://youtu.be/oFYK3Ua4YYA
https://youtu.be/QIKXRVbJr14
https://youtu.be/pgYIRuRHeQI