まいねる見聞録

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ファース・ヴィルケス オランダ初のスター

ファース・ヴィルケス 

1923年10月13日生、2006年8月15日没

 

オランダ史上に残るスターといえば誰もがヨハン クライフの名を挙げるだろう。また、オランダをサッカー強豪国の地位に押し上げたのも他ならぬクライフであり、選手として、監督として、オランダのみならずサッカー界全体に与えた影響は計り知れないことから、彼をオランダ史上最高の選手とみなす声も多い。これには反論の余地もなく満場一致だと思うが、その一方でクライフの陰に隠れて忘れ去られてしまった名手の存在を思い出してもらいたい、それがファース ヴィルケスだ。ヴィルケスはクライフ登場以前のオランダにおいて最初のスタープレーヤーだった。前線からの果敢なドリブル突破と高精度のシュートを武器にイタリアのインテルを中心に活躍した。

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経歴
家計を支えるためにサッカーをする傍らで家具の運送などの仕事に従事していたが、できることならサッカーだけで稼げるようになりたいと考えていた。17歳にしてオランダ1部リーグでプレーできるだけの実力を持っていたもののプロ選手を目指していたヴィルケスは次第に海外に目を向けるようになる。戦争終結後の1946年にオランダ代表初招集され同年3月10日にルクセンブルクとの試合で1試合4得点という鮮烈なデビューを果たした。1948年にはロンドンオリンピックに出場、そして1949年、ついにヴィルケスは探し続けていたプロ選手の道を手にした。イタリアのインテルとの契約が成立したのだ。これに伴いヴィルケスはGerrit Keizer(イングランド)、Beb Bakhuys、Gerrit Vreeken(いずれもフランス)に続くオランダ史上4人目の海外サッカー選手となった。しかし選手の海外流出をよく思わないオランダサッカー協会はアマチュア主義に拘り、ヴィルケスを代表選手から除外してしまう。ヴィルケスが再び代表招集されるのはオランダリーグがプロ化する1956年まで待たなければならない。

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↑オランダ代表でのヴィルケス

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インテル時代のヴィルケス

 

インテルでは彼の才能はすぐに認められ、端正な外見と共にすぐさまスター選手として定着、2試合に1点のペースで得点を量産、1952年にトリノに移籍するまでに公式戦95試合47得点の活躍だった。トリノでは膝の怪我に苦しみ精彩を欠いたが翌1953年にスペインのバレンシアに移ると復活し、レアル・マドリーのディステファノ、バルセロナのクバラに次ぐ3人目の外国人スター選手の評価を受けた。1956-57シーズンになるとこの年からプロ化したオランダリーグに戻り、VVVフェンロに加入するがプロ化まもないオランダリーグのレベルはそう高くはなく、物足りなさを感じたヴィルケスは再びスペインバレンシアの地に戻る。バレンシアと本拠地を同じくするレバンテに加入し1シーズン過ごした後に再びオランダに戻り、1964年に40歳にして引退した。オランダ代表としてはプロ化の1956年から再び招集されるようになり、最終的には38試合35得点の成績だったが、これは当時のオランダ史上最高の成績で1998年にベルカンプが更新するまで約40年もの間最高記録に君臨していた。

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バレンシア時代のヴィルケス

 

その一方でクラブタイトルには恵まれず、獲得したタイトルはバレンシア時代のコパデルレイ一度のみ(インテルではリーグ2位が最高、コッパ・イタリアは彼の在籍中は不開催、リーグに至っては皮肉にも彼の退団後に優勝しており、タイトルに縁がなかったことを暗喩している)だった。

 

現役時代の映像
https://youtu.be/_WFi1jkObJw
https://youtu.be/A1KIHsP2GhQ

 

参考文献

オランダ語wikiなど